光の粒 夜神月の実家が建増し工事をするという連絡が入ったのは、丁度冬が終り、風や光の温さに春の兆しが見え始める季節だった。 自分の部屋がそのままの形であるうちに、と言う月に連れられて、私は初めて都内の一軒家を訪れた。 「月くんの家に入るのは初めてです」 「でも、家中見てたんだろ。物凄い数のカメラつけてさ」 ありえないよな、と呟きながら階段を上り、月は何の構えもない仕草でドアノブを下げる。2階の、陽あたりのいい一室。家具をすべて取り払い、がらんとした部屋は、いつか監視カメラで見たときよりも広く見えた。 「うわ、久しぶりに見ると狭いなぁ」 私と全く正反対の感想を述べて、月は部屋に踏み込む。後に続いた私がドアを閉めると、部屋はしんと静かになった。 「月くんはここで育ったんですね」 「うん、まぁ……そうだな」 曖昧に呟いて、月はふと壁際のクロゼットを開ける。中は空だった。 「小さいころ、ときどきここに引きこもってた」 「ご両親に叱られて、ですか」 「いや。一人になりたいとき」 一人になって、誰にも聞かれたくない考えに耽るとき。 クロゼットに閉じこもり、心を鎮めてじっと待つ。そうすればやがて暗闇の中に「もう一人の自分」が現れる。闇の中の自分自身と心話を交わすように、親にも話せないような事柄を密かに語りかけ、一人いつまでも思いを巡らせていたという。 「まだ5歳とか、そこらだったな……あの頃から“そっち側”に片足突っ込んだ子供だったってことか」 呟くと、ふと、穏やかな表情に引き裂かれるような痛みが走る。他の誰も気づきはしないだろうが、それでも今の私にとって、彼の表情の変化は自分自身の感情の移ろいよりも鮮やかに理解できるのだった。 「そんなことはありません。親にも友達にも言えない秘密を持つのは、飛び抜けて優秀な5歳児なら自然です」 私自身もそうでしたから、と言い添えてやると、痛みを目の中に残したまま、月は笑った。私はそんな彼が愛しくて仕方がない。狂気の果てまで自らの意志で突き進み、そしてその果てに今、このからっぽの部屋に、またこうして何も持たずに佇んでいる彼が。 「入ってみましょう」 私は月の手を掴んでクロゼットに押し込める。そのまま自分も入り、内側から扉を閉めた。 「狭いな」 「それだけ君が大きくなったんです」 「そうじゃなくて」 私の手脚が邪魔だと言いたいのだろう、それでも気にする自分ではない。私はいっそ軟体動物のように関節の力を抜き、覆いかぶさるように月に絡み付いてみた。 「おい」 「この場所で」 私は月の胸にもたれかかり、心臓の鼓動を聴きながら呟いた。 「この場所で、君は人殺しのことを考えていた訳ではないでしょう」 「…………」 「むしろ誰のことも傷つけたくないと思っていたんじゃないですか。周りの人たちを心配させないように、ただ一人で……あるいは、もう一人の君自身だけを味方にして。得体の知れない不安と戦っていたのではないですか」 月は答えなかった。両腕はだらりと下がったまま、私を抱き返そうとすらしない。ただ、抑えた息遣いと、穏やかな熱だけが身体越しに伝わってくる。 「月くん。君は馬鹿です。世界を手に入れられるなんて本気で思っていたんですか。いくら私に君の望みを叶えるだけの財産と権力があったとしても、世界そのものをあげることはできません」 月はそれでも無言のままだった。不意に自分を抑えられなくなり、私は一人で語り続けた。 「世界を司る森羅万象とあらゆる生命は一個人ごときの思惑で操り取引できるものではないのです。たとえば宝石は世界の一部を削り取った結晶ですが、あんな石くれ一つを地表から掠め取ろうとするだけでも、世界というのは多くの代償を求めるものです。利権と謀略、殺戮と戦争、つまり多くの者達の命を。1キャラットどころか世界そのものを欲しがるなんて、君はそれを一体何人の命と引換えにするつもりだったんですか。まるで正気の沙汰ではありません」 「月くん、世界のかわりに私ではいけませんか。私の肉体、知性、精神、生命、全てを与えるのでは足りませんか。世界を所有することはできなくても、私そのものであれば、髪の一本から血の一滴まで惜しまずに捧げます。君に指輪を贈るようなことはしません。そのかわり世界そのものに匹敵するほどの一生を、私の命を懸けて、差し上げます」 「だから生きてください、君に私のすべてをあげますから、私に君のすべてをください。これほど無意味でちっぽけな、けれど同時に全てを擲つような交換は、私にとっては君との間でしか成り立ちません。だからどうか、私の目を見て、手を、握り返して、」 「…………」 闇にまぎれて見えないが、月はあの、無邪気さすら漂わせる透明な眼差しでこちらを黙って見つめているのだろう。冴えるほど聡く、私の奇矯な振舞いなど既に慣れっこになっている彼は、息つく間もない私の繰言も、一字一句残らず汲み取り、理解しているのに違いない。 やがて、月はゆっくりと身じろぎする。暖かく乾いた手が、私の手を取った。 「まるでプロポーズみたいだな」 「実際似たようなものです。指輪はなくても花束くらいは欲しかったですか」 「そんなものいらないよ。でも、……どうしてもっと、早く言ってくれなかったんだ」 「…………」 私は口を噤む。言えた立場ではなかった。あるいは、そうするべきだという確とした自覚もなかった。言い訳なら百も思いつくが、けれどそれを咎めるなら、月のほうだって同じだったはずだ。 彼は私を出し抜き欺こうとし、愛したかと思えば殺そうとした。何度でも立ち止まり、自分を変える機会はあったはずだった。けれどその度に彼は、あらゆる策を弄して私を擦り抜け逃げ切った。紙幣を裏返すよりもたやすく態度を変え、決して私に捕まろうとはしなかった。 「お互いに馬鹿だった、ってことかな」 「そうかもしれません」 私は見たこともない事件と謎に、そして月は死のノートが持つ力と罪に。どちらも上辺の目どころか魂ごと奪われ、取り憑かれていた。確かに惑うだけの「魅力」はあったのだろう。それを解き明かし、あるいは手に入れ操り尽くすことに、それこそ世界に匹敵する価値があると思っていたのだ。 本当はこうして並び合った互いの存在以上に、価値あるものなどなかったのに。 私は月の手に指を絡め、改めて強く握り締めた。彼の左手と、私の右手。かつては鉄の鎖で繋ぎ合っていたそれを、決して離してはいけないのだと今ならわかる。 「でも、今度こそ間違えません。誰よりも先に君を迎えに来ます。死神の手には絶対に渡しません」 「ふうん。頼もしいな」 「私は本気です。だから約束してください。ここを出たらもう決して同じことは繰り返さないと。小さな子供の君自身を苦しめたりはしないと」 「……わかってる」 「私も二度と君を諦めたりしません。あらゆる知恵と手段を使い尽くして君を手に入れます」 「僕もだ。竜崎、もう一度……おまえと一緒に、世界を見たい」 「行きましょう。今度こそ、二人で」 触れるだけのキスを一つ。私は月の手を取って立ち上がる。片手をクロゼットの扉に掛けたのと、月が迷うように繋いだ手を引いたのは同時だった。 「竜崎、…………ごめん」 動きかけた所作を止めることはできずに、扉を開ければ、外は光の世界。 刹那、黄金の海に投げ込まれたような、圧倒的な眩しさが全身を包んだ。 無数に弾ける粒子がしゃらしゃらと音を立てて私を通り過ぎ、 振り返ると、クロゼットには 自分以外に、誰もいはしなかった。 私は呆然として立ち尽くす。 そうだ。 今の私が、彼を取り戻すことなどできるわけがない。 夜神月はもういない。キラは滅び、私は生き延びた。 父と息子を失ったこの家に、今更建増しなど必要なわけがない。 遠い土地へ嫁ぐことが決まった妹と、それに伴って東京を離れることになった母。からっぽになったこの家は、間もなく取り壊されることになっている。 最後にもう一度ここを訪れたいと思ったのは何故だろう。 たとえ痕跡しかないとしても、そこまでして彼に逢いたかったのか。 振り返らずに闇を抜ければ、黄泉の国から彼を連れ戻せるとでも思ったのか。 私はただ一人、腕に残る月の体温を思い出す。 あの暖かさと、私が語る間、静かに続いていた鼓動とひそやかな呼吸。少ない言葉で凛と返された答え。それは、かつて彼と過ごしたあの日々と何も変わっていなかった。 幻覚ではないと思いたかった。この部屋を出れば私にはまた、身分を偽り、謎と悪と無機物に囲まれる日々があるだけだ。せめて束の間、私が語る間だけは繋がることができたのだと信じたかった。それがたとえ愚かで安っぽい願望にすぎなかったとしても。 それでも私は、探し続ける。 忘れることよりも、永遠に求め続けること。今の私にとってはその方が余程まともな救いになるのだ。何度でも時を溯り、必然と偶発の繰り返しが呼び起こす無数のトラップを踏み越えて。生きた彼を私の世界に再び迎えるまで、私はいつまでも探すだろう。 「月くん」 部屋に満ちる穏やかな西陽。目を閉じ、しばしやすらかに抱かれた後、私はその暖かさに背を向ける。 そうして、別れの言葉も告げずに、ただいとおしい子供の部屋の、ドアを閉めた。 End. |
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KASHI/KASHI :樫名柏様
月君の痕跡をたどる竜崎が愛おしいです!!
クロゼットでの月君との対話が、竜崎の想いが温かくて切ないお話です。 「愛」とは「赦すこと」そんな印象を受けました・・・・
こちらのお話には元ネタとなった映画があるそうなんです。
主人公が恋人の運命を変える為に時間を遡るという・・・・ごめんなさい、死ぬほど萌えました・・・・
お忙しい中素敵な作品をありがとうございました!!